また前回の記事から半年以上経っての投稿で申し訳ありません。これを書いた時期は「3月のライオン後編」を映画館で観た後なので、その時の気持ちと今とでは多少ズレが自分の中で感じられますが、そのまま載せてみます。よかったら読んで下さい。
「ヒミズ」は衝撃的だった。
この映画は、前記事の「三月のライオン後編」を観た次の日、家のDVDで観た。何というめぐり合わせでこの2つの映画を連続で観ることになったのだろうか。
始めは、対照的な相反する映画だと思っていた。
「ヒミズ」は冒頭から、人が生きる悲惨さを訴えてくる。主人公の高校生男子は(染谷将太が素晴らしい!)、両親から見放され、生きる意味を見失っていく。父親からは何度も「お前は生まれてこなければよかった」と、自分の存在自体を全否定され、母親は男を作り、自分を捨てて家を出て行ってしまう。こんな両親本当にいるのか、と思ってしまう程ひどい状態なのだ。が、現実に毎日起こる事件を見聞きすると、映画が全くのフィクションとも思えず、背すじが一瞬寒くなる。
またこの映画は、どんどん悪い人間が次から次へと出てくる。準主役の女の子の母親や通り魔犯人や犯罪に染まる若者等、それらは人間の本性を露わにする。観ていて反吐が出る位だ、と思うほど、嫌な場面が多く出てくるのだ。
でもそう思う一方で、それらの場面は一見ありえないようでいながら、自分の中で感じる別の悪のどす黒い部分は、むしろ日常的に思える共感のようなものを持つ感覚にもなる。自分の心の黒い闇の奥深くへ引きずり込もうとする強い誘惑のような、昂揚していく心を止められないような。
ふと現実に戻ると、自分の中のその悪を抑え込みながら、毎日ちゃんと他人と共生しているのだが、その一線はじつは紙一重で非常に危ういと気づかされる。
映画の中で事件を起こす人々は、どこか孤立し、自分の世界の中で鬱屈したものを溜め込んでいる。両親から見捨てられ、社会から見捨てられ、社会の常識からはみ出され、他人を憎み、生きることに無意味さを感じていく。どれも、どこにも、自分と他人が分かち合うものは何もない。絶望ということは、自分という存在を周りから認められていない、という拒絶感からくる。自分が否定されたり、何か強要されたりし続けていれば、人はおかしくなってくるだろう。
人というのは元々生まれながらにして悪ではなく、人とのつながりが持てているかどうかだけで変わっていくのではないか。他人と共生できるかどうかの危うい紙一重の差は、自分の身近にそのままの自分を受け入れてくれる人・場所が1つでもあるかないか、のことではないか。
映画の最後には、自分の周りには、女の子(この役柄の二階堂ふみはとてもハマっている)やバラックの人達等、何とかつながりを求める存在がいることに主人公は気付き始める。希望を見い出すことは、誰かが誰かを想うことでしかない。それしか人を救うことは出来ない。そんな強いメッセージを感じた。
衝撃的な映画であったが、観終わった最後に感じたことは、意外にも前記事の最後と同じでつながっているように思える。
辛過ぎる出来事はもちろんないことに越したことはない。が、人は大なり小なり悲しい出来事を抱えて生きている。そして、その人生の中で生きる光を見い出す人は、人とのつながりを支えとして、そのひとつひとつの出来事を乗り越えていく。それは普通の生活の中で、まったく一人では生きていない、と気づいていることだ。
こないだコンビニのかわいい女の子の店員に、おつりを両手で差し出されて渡してもらっただけで、一人で生きていないぬくもりを感じたのだから。(ちょっと違うか)