またまた前記事からブログアップの間隔が空いてしまって申し訳ありません。今回の記事も以前夏に書いたものですが、載せるのが年明けて冬の今になってしまいました。季節感がないかもしれませんが、そのまま打ち込みます。もしよかったら読んでください。
この間(去年)の8月に軽井沢に行った。うちの奥さんのほうのおばあちゃん(奥さんの母)とおばちゃんも一緒に行くから、総勢6名、毎年恒例年1回の家族旅行だ。いつの頃からだろうか、うちは奥さんの誕生日が近づく夏のこの時期になると、必ずおばあちゃん達と旅行をするようになってきた(以前の香港旅行もそうだし*前の記事参照)。
今年は2泊3日の旅程で、マイカーのエスティマちゃんにみんなで乗って出かけることにした。3列シートも使ってドライブすることは普段なかなかないので、うちの次男坊なんかは、始めしきりと意味もなく後ろを振り返っては3列目のシートに乗っているおばあちゃん達を見て、にやにやと笑っていた。
3時間ぐらいかけてのゆっくりのんびりのドライブ旅行。いつもより少し多めの家族を乗せてワゴン車を走らせていると、ふと同じように1BOXのワゴン車(うちのエスティマちゃんより少しだけオンボロだったような)で、家族旅行に出かける映画を思い出していた。
「リトルミスサンシャイン」は5年位前に観た映画だったが、ラストシーンが何となく良く、そのなんとなさが雰囲気を柔らかくしていて、とても好きな映画だったと記憶している。
ストーリーは、末娘(小さな女の子)のミスコンテストに出る為に、家族総出でその会場まで車で旅行に出かける、といった内容だったと思う(あれ?旅の途中でミスコンに出ようと決意したんだっけ、いつものことながら記憶が曖昧ですみません)。
一緒に行く家族みんなが、いい味を出しているのだが、特に自分はその中でもおじいちゃんが大好きだ(あの間の崩し方はちびまる子の友蔵に通じるものを感じる)。でもそんなおじいちゃんも映画の中盤には姿を消し、家族それぞれの問題がどんどん浮き彫りになる中で、どんな展開になるのだろう、と観ているほうを不安にさせる(基本コメディタッチなんだけど)。途中こんなことありえない展開だろうというような所もあるのだが(基本コメディタッチなのでいいのですが)、結局はおじいちゃんの思い(つながり)が、また家族を結びつけていったのではないかと感じさせるラストだった。現実的には何も家族のそれぞれの問題は解決していないのかもしれないけれども、ちゃんと家族って目に見えない何かがあって、そこに気づく優しさがあれば、今よりかは少し、みんな生きやすくなるのではないか、と思えた映画だった。
うちの今回の家族旅行は、というと、やはり映画ほどではないが旅の途中、小さなトラブル結構ありました、という感じだった。
予定していた昼食場所が混んでいて入れず、他の店へ移動しようと思ったら、山中で道に迷ってしまって車の中が険悪な雰囲気になったり、白糸の滝の前のイワナの塩焼きを兄弟で取り合って大喧嘩になったり、自分が以前から気になっていたお店に連れてってみると、おばあちゃん達は気に入らなかったのか店主の前で「なんだか何のお店か全然分からないわこの店は。こんな小さな店でやっていけるの?」と大声で平気に言ってしまったり(こじんまりとした店でいい雰囲気だと自分は思ってたのに)、暑すぎて次男坊が夏バテしちゃってか、急に動かなくなってしまって何キロも自分が抱っこして歩くはめになり、後で腰痛になってしまったり、と様々な想定外のことが突拍子もなく出てくる(まあ小さいといえば小さいトラブルですが)。
けれども、温泉に入った後に涼しげな虫の音と川のせせらぎを聴きながら、みんなできれいな夕焼け空を眺めてビールを飲んだり(子どもはジュース)、高原の広場で子ども達と思いっ切り走り回って遊んでみたり、夜には疲れて早めに寝てしまった子ども達の寝顔を、4人の大人が一緒に眺めてにやにや微笑んでいる姿に、お互い見合ってまた自分達で笑いあったりしているような時もあったり、そんなことをしている内に、小さなトラブルも不思議ととても愛しい時間に変わってくるように思えるようになってきた。
こういった時間を後で思い返し、自分が死にそうになった時、あぁあの時は幸せだったなあと感じるのではないか、と考えたりもする。それより前におばあちゃん達がいなくなる時に(いやどっちが先かわからないけど)、あの時は楽しかったよね、あの時間があって良かったね、と言い合えることができるのではないか。時間の許す限り言い合いたいなあ、と切に願っている自分の心に驚いたりもする。
旅は時々、いつも普段思うこととは違うことを、突然気付かせてくれる時がある。
「リトルミスサンシャイン」が好きだということも、家族の見えない何かつながりのようなものと共に、この旅の本質を最後教えてくれるところにあるのかもしれない。
軽井沢の旅から帰ってきて長旅に疲れてしまったのか、うちのエスティマちゃんが故障して動かなくなってしまった。11年目の中古車だったからしょうがないところもあるかもしれない。ギアボックスの修理で40万もかかるらしい。緊急家族会議で軽自動車も検討したが、やっぱり修理することに決めた(新車は高くて買えないし)。愛着もあり、子ども達も気に入っている車だということもあるが、やはり家族大勢で出かけられることはこの車の一番の魅力だ。
来年もぜひ一緒に家族旅行に行きましょう、おばあちゃん。だから修理代少しヘルプを~~!!
またすっかり記事の投稿間隔が空いてしまってすみませんでした。この映画記事も6月に観て1ヵ月後位に下書きを書いたのですが、バタバタと生活に追われこんな時期になってしまいました。(もうこの映画DVDにもなっていますよね、その分観た人も増えたかな。とにかく遅くなってごめんなさい)
今年の6月に映画館でこの「ブラックスワン」を観た。アカデミー主演女優賞作品だったので、いい映画だろうと思ったのと、前回「わたしを離さないで」を映画館で観た時に、予告編で面白そうな内容だ、と興味を持ったからだった。 まあ予告編というのは、大体面白そうに観せるように出来ているのだが、映画館で観る貴重な機会はとても大切にしたいので、自分は最近余裕がある時は、できるだけそういった予告編とインターネットの口コミの情報も多少参考にしながら選ぶようになってきた。(年とってきた分だけ安定志向というのか、お金がないから映画に行くという贅沢には慎重になるというか、どちらにしても切ない話です)
少し怖そうな映画にも見えたのではあるが(口コミではシックスセンス並みに怖いという人も ホントかぁ?)、実際は主人公の内面的な様子が思ったよりも多く、怖いというより人間心理の内と外との切り替えに戸惑う、といった感じだった。予告編のイメージでは、もっとバレエ界の愛憎劇、というものかと思っていた。が、映画が進行するにつれて怖いイメージが、その愛憎劇のような他者に対して向けられたものではなく、自己という意識に向き始めたので、戸惑いながらも自分の観る姿勢というか意識を、少しずつ最初の愛憎劇イメージから主人公の内面に入り込んでいくように修正して観ていった。そうすると最初のイメージと違った映画の観方の楽しみが出てくる感じがした。
本来、イメージしておく、ということはとても大事なことだと思う。自分の予想外のイメージしていないことが起きると、自分の中で軽いパニックになって困ってしまうことが多いからだ(物事によってかなりその大小の差はあると思うが)。
映画でもイメージの影響は大で、自分がこういう映画だと思って観始めた時に、最初のイメージを崩されて最悪の映画だった、と思うこともある。映画には、観る前にイメージで期待することが意外と多い。今、自分がこんな気分だから、こういうイメージの映画で気分転換したい・笑いたい・物思いに耽りたい、とか。 その時の自分の気持ちに合わないと、映画の評価が変わることだってある。
たまに本当のいい映画は、そのイメージを覆すことによって、もしくは想像以上のものを出すことによって、人々の心に震えるものを残すこともある。しかしそれは本当にたまに、であってしょっちゅうあるわけではない。
それで最近映画を観る時に、最初のイメージと違うものに当たったら、自分の意識を、一旦フラットにして、その映画の主体の世界に浸る、という感じにすると、イメージ通りじゃない!とがっかりすることは少なくなってきたような気がする。
そんな感じでこの「ブラックスワン」も観た。主人公の女の子だって、映画の観方だって、要はなんだかんだといって自分の意識の問題なのだ(やけにざっくりとした並列の仕方だけど)。
自分の意識の問題というのを考えると、自分はすぐに浮かぶ思い出がある。
自分は高校生まで野球部だったが、少年野球・中学までは、周りのみんなが上手い上手い、と褒めてくれていたので、自分も相当上手いんだ、とその気になって野球をやっていた(練習は大変だったが、その分結果はそこそこ満足いくものだったし)。高校1年まではそうだった。
が、高校のある練習試合で、自分はとんでもないエラーのミスをしたことがあった(思い出すと恥ずかしい位のプレー 今でも夢でうなされる時もある)。
そこから一転して、試合では悪いことばかりで、うまくいくことが少なくなっていった。どうしても試合の打席になると力んでしまってチャンスに凡退するし、自分の所に打球が飛んでくるとミスを意識してしまって、またエラーをしてしまう。バッティング練習をしている時に、先輩からは「練習の時にはこんなに打てるのに、試合になるとどうしてああなるかなぁ」とつぶやかれたこともあった。
結局その後2年間、そんなにいい結果は出なかった。周りからはその先輩のように事有る毎に、意識しすぎだと言われた。力を抜け、と。でもそう言われれば言われるほど、その意識過剰を自分ではどうコントロールしたらいいか判らなかった。
この映画の主人公は、本当は実力があるのに、意識過剰で演技を失敗する。精神も普通じゃなくなる。映画の途中までは、自分はそこまで追い詰められなかったのでましだったかなと思っていた。が、ナタリーポートマン扮する主人公が、(どんな形であれ)最後の結果として自分の思う通りの演技が出来ると、良かったじゃないかと素直に思う気持ちと、それと同時に一方では、嫉妬にも似た気持ちを持つような形で映画を観終わった。いい映画だと思うのに、う~んなんだかモヤモヤ感が。 でもこれは自分に対してのもやもや感なのか。
さっきまで映画の色々な観方を考えていたって、結局いつも通り自分の気持ちを通して、主観的に観ていることに気付く。
ちょっと意識過剰は、今でも治っていないようで・・・困ったもんだ。