IE9ピン留め
意識過剰はほどほどに 第23作「ブラックスワン」
 またすっかり記事の投稿間隔が空いてしまってすみませんでした。この映画記事も6月に観て1ヵ月後位に下書きを書いたのですが、バタバタと生活に追われこんな時期になってしまいました。(もうこの映画DVDにもなっていますよね、その分観た人も増えたかな。とにかく遅くなってごめんなさい)  

                   
 今年の6月に映画館でこの「ブラックスワン」を観た。アカデミー主演女優賞作品だったので、いい映画だろうと思ったのと、前回「わたしを離さないで」を映画館で観た時に、予告編で面白そうな内容だ、と興味を持ったからだった。 まあ予告編というのは、大体面白そうに観せるように出来ているのだが、映画館で観る貴重な機会はとても大切にしたいので、自分は最近余裕がある時は、できるだけそういった予告編とインターネットの口コミの情報も多少参考にしながら選ぶようになってきた。(年とってきた分だけ安定志向というのか、お金がないから映画に行くという贅沢には慎重になるというか、どちらにしても切ない話です)

 少し怖そうな映画にも見えたのではあるが(口コミではシックスセンス並みに怖いという人も ホントかぁ?)、実際は主人公の内面的な様子が思ったよりも多く、怖いというより人間心理の内と外との切り替えに戸惑う、といった感じだった。予告編のイメージでは、もっとバレエ界の愛憎劇、というものかと思っていた。が、映画が進行するにつれて怖いイメージが、その愛憎劇のような他者に対して向けられたものではなく、自己という意識に向き始めたので、戸惑いながらも自分の観る姿勢というか意識を、少しずつ最初の愛憎劇イメージから主人公の内面に入り込んでいくように修正して観ていった。そうすると最初のイメージと違った映画の観方の楽しみが出てくる感じがした。

 本来、イメージしておく、ということはとても大事なことだと思う。自分の予想外のイメージしていないことが起きると、自分の中で軽いパニックになって困ってしまうことが多いからだ(物事によってかなりその大小の差はあると思うが)。
 映画でもイメージの影響は大で、自分がこういう映画だと思って観始めた時に、最初のイメージを崩されて最悪の映画だった、と思うこともある。映画には、観る前にイメージで期待することが意外と多い。今、自分がこんな気分だから、こういうイメージの映画で気分転換したい・笑いたい・物思いに耽りたい、とか。 その時の自分の気持ちに合わないと、映画の評価が変わることだってある。
 たまに本当のいい映画は、そのイメージを覆すことによって、もしくは想像以上のものを出すことによって、人々の心に震えるものを残すこともある。しかしそれは本当にたまに、であってしょっちゅうあるわけではない。

 それで最近映画を観る時に、最初のイメージと違うものに当たったら、自分の意識を、一旦フラットにして、その映画の主体の世界に浸る、という感じにすると、イメージ通りじゃない!とがっかりすることは少なくなってきたような気がする。
 そんな感じでこの「ブラックスワン」も観た。主人公の女の子だって、映画の観方だって、要はなんだかんだといって自分の意識の問題なのだ(やけにざっくりとした並列の仕方だけど)。

 自分の意識の問題というのを考えると、自分はすぐに浮かぶ思い出がある。
 自分は高校生まで野球部だったが、少年野球・中学までは、周りのみんなが上手い上手い、と褒めてくれていたので、自分も相当上手いんだ、とその気になって野球をやっていた(練習は大変だったが、その分結果はそこそこ満足いくものだったし)。高校1年まではそうだった。
 が、高校のある練習試合で、自分はとんでもないエラーのミスをしたことがあった(思い出すと恥ずかしい位のプレー 今でも夢でうなされる時もある)。
 そこから一転して、試合では悪いことばかりで、うまくいくことが少なくなっていった。どうしても試合の打席になると力んでしまってチャンスに凡退するし、自分の所に打球が飛んでくるとミスを意識してしまって、またエラーをしてしまう。バッティング練習をしている時に、先輩からは「練習の時にはこんなに打てるのに、試合になるとどうしてああなるかなぁ」とつぶやかれたこともあった。
結局その後2年間、そんなにいい結果は出なかった。周りからはその先輩のように事有る毎に、意識しすぎだと言われた。力を抜け、と。でもそう言われれば言われるほど、その意識過剰を自分ではどうコントロールしたらいいか判らなかった。


 この映画の主人公は、本当は実力があるのに、意識過剰で演技を失敗する。精神も普通じゃなくなる。映画の途中までは、自分はそこまで追い詰められなかったのでましだったかなと思っていた。が、ナタリーポートマン扮する主人公が、(どんな形であれ)最後の結果として自分の思う通りの演技が出来ると、良かったじゃないかと素直に思う気持ちと、それと同時に一方では、嫉妬にも似た気持ちを持つような形で映画を観終わった。いい映画だと思うのに、う~んなんだかモヤモヤ感が。 でもこれは自分に対してのもやもや感なのか。

 さっきまで映画の色々な観方を考えていたって、結局いつも通り自分の気持ちを通して、主観的に観ていることに気付く。

 ちょっと意識過剰は、今でも治っていないようで・・・困ったもんだ。





# by ryushublue | 2011-10-15 23:36 | 映画
歌声とともに~時間の想いの重さと儚さ~ 第22作目「わたしを離さないで」
 この映画の始めの方に、学校の風景の場面になると、子ども達の歌声が聴こえてくる場面がある。


 この間の4月に、うちの奥さんと久しぶりに映画を観に行った。
 この映画にしたきっかけは、去年自分が、カズオ・イシグロの原作を読んでいて、あの本を映画化するってなんて無謀なことを、という気持ちと、映像になったらどういう風になるのかという興味があったからだ。奥さんは、話のストーリーをまったく知らず、事前情報もなしで観ることになったので、どんな反応をするのかも楽しみだった。

 今回は結果から言うと、映画観終わった後、奥さんから、「なんでこの映画にしたのよ!」と言われてしまった。  
目を真っ赤にはらして泣きながら。
 
 この話は近未来的なものかと思っていたが、30年位前の過去の架空の話として描かれていた。所謂臓器売買のような話で、クローン人間として育てられる子ども達が、青年になって臓器を提供し、人生を終える、ということなのだが、その子ども達の生き様を実に繊細に瑞々しく、気持ちが透けるように映像に収めていた。

 今まで色んな原作を読んだ後の映画化で、何度か苦汁を飲まされてきたので、今回も少し不安だった。原作が自分の心を揺さぶられる程良かったりすると、その分映画に求められるハードルが高くなる訳だが、原作の雰囲気が伝わるいい映画は、だいたい最初の5分間で判ることが多い。この映画は、導入部の病院から学校への記憶の移行の場面からビビっときたので、観る前の心配をよそにしっかりと2時間ちょっとの間、原作の世界観に浸らせてくれた。多少ストーリーが変更している所もあるのだが、そんなに違和感なくすんなりと見入ってしまった。

 特に主人公の3人が良かった。子役達もよく演技していたと思うが、やはりキャリー・マリガンがすばらしかった。淡々とした演技の中でも、沸々とした気持ちが垣間見えるようなところが良かったのだ。男の子の方もちょっと線が細いと思ったが、とってもナイーブな印象をうまく演じていた。キーラ・ナイトレイは今までの役とは違った雰囲気で賛否両論もあるだろうが、必死に役どころを押さえようとしている気持ちが伝わってきた。(最後はかなり体重を落としたのではないかと思う)


 生きていくということは単純なようでいて難しい。自分は何のために生きているのか、よく考えることもある。
しかし映画の中の彼らは何のための存在なのかは、自分が考える前から決まっていた。決まっているのにそれに抗うように、その答え・意味を探していたと思う。子どもの頃にはある意味何も意識していなかった為に、広大な面積を持っていた自分の存在意義そのことが、年を重ねるにつれ時間を重ねるにつれ、段々と狭められ、限定され、悲惨な結末へと導かれていく。

 そんな時、主人公のキャシーは言う。「私達には3人がいたから、まだましだった」と。
語れる想いがある、記憶を共有しあえる大切な存在がいる、ということで、人はどれだけ救われるものなのか、彼女達は短い限られた命の中で体現していく。

 映画を観ながら、段々とこれは単に臓器提供の境遇に置かれた悲しい存在の出来事ではないな、と感じていた。この感覚、この限られた時間の中で生きていくことは、何も彼ら特別なのではなくて、日常生きている自分達にも言えることではないか、と思えてきたのだ。誰も明日の自分の身はどうなっているのかは保障はされていない。事故や病気だって突然くることもある。それこそ災害だって突然やってくる。その中でどうやって生きていくのか、自分の存在意義はなんなのか。何も考えていなかった無邪気な子ども時代から、段々と時が経つにつれ、できることが限定され、可能性が潰され、なんら意味が成さないような人生を歩んでいるような空虚感に襲われる時に、人は、なにを頼りに生きていけばいいのか。

 この映画は、想いを大切にしているのだと思う。想いを記憶と言い換えてもいい。限られた命の中で、短いとされる時間の中で、支えにして生きていけるものとは、誰かに対する想いがあるということなのではないか。誰かとの記憶がしっかりと(あいまいでも美化されていても)存在しているから、それを自然と支えにして生きていけるのではないか。
 
 なんだか書いている内に、前回のテーマと段々かぶってきている様にも思えてきたが、このタイミングでこの映画に出会えたことも、何か目に見えないつながりがあってのことだと感じてもいる。

 
 この映画は、エンドロールの最後の最後で、観ている人に記憶を植え付けるように真っ暗な画面のまま、冒頭の子ども達の澄んだ歌声だけを聴かせる。映画から浮き出てきたような歌声が、映画館に響き渡る。

 そして奥さんの、号泣しているのだろう、鼻を啜る音が何度も聞こえる。


 明日、うちの長男が通っている近所の小学校の音楽集会がある。土曜日ということで保護者も自由に見学できる。1年生から6年生まで学年毎に順番に歌うらしい。

 多分(というか必ず)、子ども達の歌声を聴いて、自分は涙することになるだろう。(もちろん奥さんも)
 彼らのこれからの可能性への羨望と、これからの試練への哀れみと、自分の心の中から沸き上がってくる記憶に対する感動とで。














# by ryushublue | 2011-06-28 13:42 | 映画
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